僕の人生で1番大きかったこと…。母親の病気・そして亡くなった事。

(姉)
もしもし、いまどこにいるの?
(僕)
友達とご飯食べているけど…
(姉)
それどころじゃない…早く帰っておいで…。
(僕)
どうしたの??

 

(姉)
お母さんが、ガンって…。
(姉)
もう、全身に転移していて手術もできないみたい…。

もう、8年近くも前のことだが、今でもはっきりと覚えている。

 

この当時、僕は東京に住んでいた。

電話をかけてきた姉も、東京にいた。

 

電話の日は姉から、お母さんが口の中に出来物が出来ていて、歯医者に行ったが、大きい病院に紹介状を書いてもらい検査に行くと聞かされていた。

その時は「ちょっとした出来物だろう」と思いながらも、何か嫌な予感もした。

 

仕事も終わり、その日はなんとなく1人でいたくなかったので、友達と飲んでた。

そして、姉からの電話でお母さんの病気を聞かされた。

友達の目の前で、かなり長いこと泣いていたと思う…。

その時から、僕の楽しかった毎日が大きく変わっていった。

 

 

病気を知らされてからは、2週間ぐらいで仕事も辞め、アパートも解約し、沖縄へ戻る手続きをし戻った。

 

沖縄に着き、空港から病院へと直行した。

「早く行かなきゃ」と行きたくない気持ちが両方だった。

病室に着くと、僕以外の家族はそろっていた。

 

久しぶりに会うお母さんは、かなりやせ細っていた。

僕に、久し振りに会って嬉しそうな表情を見せたが、元気を装っている感じだった。

 

この日から、家族全員でお母さんの看病が始まった。

 

元気だったお母さんも、抗がん剤治療を始めると、みるみると痩せ始め、食べれていた食事も食べれなくなった。

体重も、30k後半まで落ち、写真で見た1ヶ月前とはまるで別人だった…。

あの頃、全く知識がなかった僕は、何も考える事が出来なかったけど、今なら抗がん剤治療以外にも、もっと他の選択肢があったのではないかと考えている。

最近亡くなった樹木希林さんのように、治療はあまりせずに、残された余命を自分らしく生きたり、緩和ケアやマインドフルネスなど考えても良かったかもしれない‥‥。

 

口から、食事が出来なくなったお母さんは、中心静脈栄養で、体へ栄養を入れていた。

中心静脈栄養とは

経口摂取が出来ないときに、中心静脈経路から高カロリー輸液を投与する方法

食べれない・飲めない・そして話す気力さえない‥。

ただベットで横になり、管から栄養が入ってるお母さんを見ると、これからが不安で仕方なかった。

口から食べれなくなるのが1番怖かった僕は、少しでも水分をあげたかった。

でも常に淡があり、飲むと淡にからみすぐに吸引。

吸引されるのも、見ていて苦しそうで辛かった。

あげて吸引されて苦しい思いをする位なら、いっそのこと、あげない方が良いのか…。

それでも、濡らしたガーゼで唇を湿らせてあげたり、吸い飲みを使って、一滴だけ口に落としたり絶対に口から食事を取れなくなるのは避けたい思いだった。

この時期は、お母さんも話すことが少なくなり、表情も暗い。

このまま病気に負けるのかと思った。

父と姉2人、そしておばさん達にも協力してもらい、お母さんの周りには常に誰かいる状態、少しでも不安がない様に毎日を過ごした。

 

そして、お母さんの「絶対に病気には負けない」そして必ず良くなると言う気持ちが強く、病状も少しづつだが、良くなって来た。

気づけば、食事も水分も飲めるまでに回復していた。

この時は、本当に嬉しかった。

食事や飲み物を口に出来るようになり、

こんな当たり前の事が出来るようになった、お母さんにもやっと笑顔が戻った。

そして、お母さんの一番の希望である「家で生活をしたい」

こちらが実現出来るようにまでなった。

 

病院に通院しながら、抗がん剤も家で継続。

画像引用:小児がん専門情報サイトより

胸にポートを埋め込み、小さい子供が水筒を肩にかけるみたいに、抗がん剤を掛けて、体へ流していた。

 

食事も、家族で協力し、僕も本などで勉強しながら食事を作った。

特に、

☑玄米中心

☑魚などの魚介類はしかっりと食べる(青魚中心)

☑お肉は、鶏肉中心で脂身の少ないもの

☑卵とお豆腐はしっかり食べる

☑たっぷりの野菜と海藻類・きのこ類を意識

☑かつおだしで取ったお味噌汁・すまし汁

☑甘いもの・果物は取らない

☑水分は、お水かお茶

大きくこの辺りは意識した。

本当に、子供が食べる位の量を一時間かけてたべていた。

また、フコイダンやアガリクスなど健康に良いと聞いたものは積極的に試した。

 

またおじさんからも、本土にいい医者がいて進められた。

お母さんには伝えたかわからないが、今の環境を変えてまでは、それは望まなかったと思う。

食事も食べれるようになると、体も少し動かせるようになった。

食器を洗ったり、洗濯物を畳んだりも出来るようになった。

外出もし、毎週日曜日はおばさんが太極拳に連れて行ってくれ、そこで出会った方に気孔をしてもらったり、周りにいい人達ばかりで本当にたくさんの人に助けてもらった。

 

しかし、日により体調も悪く、起きることが出来ず、寝ている日もあった。

訪問介護や看護も頼んでいなかったので、すべて家族でやっていて、少しづつ不安を覚える日も増えて行った。

 

 

ある日、帰りが遅くになってしまい家に帰ったら、お母さんはトイレに座りっぱなしだった。

立ち上がることが出来ずに、大きい声も出せない…。

父も疲れていて、全く気が付かない。

それからは、夜は遅くならないようにした。

 

少しずつ状態が悪い日も増えてきた。

横になりながら、時折苦しそうな顔も増えていった。

それからは、家で見るのが難しくなり、病院と自宅の生活を繰り返した。

 

たまに、すごい痛みを訴えることも出てきて、モルヒネ(麻薬系の鎮痛薬)も使用するようになった。

体はやせ細り、両足は浮腫でパンパンに腫れあがっていった。

少しでも気がまぎれるよう、マッサージなどをした。

 

毎日、親族・お母さんの友人がお見舞いに来てくれた。

みんな、心配そうに暗い顔をしてくる人たちに、「何であんたそんな暗い顔しているの、元気だしなさい!!」と良く言っていた。

お見舞いに来た人たちが、勇気づけられ元気をもらって帰って行った。

 

自分が、一番きついのに本当に強い母親だ。

でも、誰もいないときはとても静かだった。

 

僕がこの頃、病院での看病で怖かったのが「夜」だった。

昼は明るいし、人もたくさんいし、賑やかさもある。

けど、夜になると急に不安が押し寄せてくる。

そして、何かが起こるんじゃないかと…。

周りからも、誰かの苦しむような声や、心電図や点滴が切れた時に鳴り響く音が大きく、不安になり、眠れもしない‥。

だから、夜はいつも「早く朝になってほしい」っと思っていて、朝になると毎日嬉しい気持ちになって、何もなく向かえられた朝は、本当に清々しく思えた。

 

一度、夜中の2時ごろに、お母さんが急に目を覚まし、横で座っていた僕に対し「あんた、誰ね?」と言われたことがあった。

この時は、寝ぼけていたのか、薬などの副作用もあったのかわからないが、とても悲しくて外で泣いたことを覚えている。

 

容態と言えば、いつ急変してもおかしくない状態だった。

担当医からも、「家族の方も、覚悟していて下さい」と言われた。

呼吸が止まりそうなら、人工呼吸器を付けるか?など具体的な話もした。

お母さんからは、絶対に「延命治療」のようなことはするなっと言われていたので、お母さんの意思を尊重した。

けど、家族もそこは望んでいなかった。

 亡くなる半年前の家族で外食

 

ある日、少しずつ弱っていくお母さんから、「夕日が見たい」とリクエストがあった。

外出も長いことしていないし、、お母さんの希望だったので、主治医と相談し、「夕日を見たらすぐに帰ること」「何かあればすぐ戻ること」を約束して出かけた。

おばさんから、車椅子が乗れる車を借りて、僕が運転して海に向かった。

 

夕日は、しっかりと見れた。

夕日って美しかったり、綺麗だったりするものだと思うけど、あんなに悲しい夕日は、これからも一生ないと思う。

お母さんは夕日を見ながら、ずっと泣いていった。

何を話せばよいか言葉が出てこなかったし、何か話したかも覚えていない‥‥。

ただ、だまって静かに夕日を見ていた。

 

この一週間後、お母さんは亡くなった。

 

僕は、お母さんの死に目には立ち会えなかった。

病院に駆け付けたら、家族・親族が部屋にいた。

ベッドで横になっているお母さんは、普通に寝ているようで、今にも目を開けそうな感じだった。

みんな泣いていたけど、僕は涙は出てこなかった。

 

ガンが見つかり、余命宣告は3か月。

しかし、あれから1年が経とうとしていた。

お母さんの、病気に負けない強い気持ち・生きる意志・そして周りで支えてくれた人達。

亡くなっったというのに、少し「清々しい」気持ちもどこかにあった。

 

お母さんは、決して強い人ではなかったと思う。

だけど、病気になったお母さんはものすごく強かった。

 

最後に主治医の先生が、「あんなに強い母親と、それを熱心に支えるご家族は初めてです」と言ってくれた。

たくさんの患者さんを見ているし、お世辞だと思うけど純粋に嬉しかったし、何か心が救われた感じがした。

 

お母さんを自宅に連れて帰り、翌日火葬場に行ったと思う。

 

火葬したお母さんは、骨さえ残らなかった。

ガンという病気が、お母さんの骨をもボロボロにした。

残ったは、ポートなどに使用した体に埋め込まれた「鉄などの器具」だけ‥。

病気の恐ろしさと、醜さを感じた。

当時僕は、ずっとたばこを吸っていた。

何度も禁煙に挑戦したが、辞めることは出来なかった。

お母さんは、たばこの匂いが嫌いだったので、病気になってからは、看病で控えていたけど、火葬場のあの時から今まで、僕は一度もたばこを吸っていない。

 

吸っていないというか、吸う気に全くなれない。

 

大切な人が、病気でボロボロになって行く姿を、目の前で見て来て、体に悪いたばこを吸おうなんて気に全くなれない…。

これは、お母さんが「体を大切にしなさい」って教えてくれた事なのかもしれない。

 

 

あれから、8年が経った。

僕は、管理栄養士という仕事をしている。

男性栄養士は少ないし「栄養士をやめよう」って何度も思ったけど、今も続けている。

嫌な事も色々あるけど、やっぱり大切な仕事だと思う。

だって、人は食べないと生きていけないから。

 

そして、食べる物でその人の「心」と「体」が出来ている。

お母さんは、ものすごく食事に気を使っていた訳ではない。

だけど決して、食生活は悪くなかったけどガンと言う病気になり、58歳の若さで亡くなった。

 

健康に気を使っている人が病気になる事もある」

その逆に、食生活・生活習慣も悪いのに「病気にならない人もいる」

 

なんで、お母さんなんだろう…。ってずっと思っていた。

こればかりは本当にわからない。

 

でも、食事や生活習慣が悪くて病気になるより、

気を付けていて病気になった方が、後悔は少ないと思う。

 

健康であることは、人間にとっての「第一前提」

人が1番避けないといけないことは「死ぬこと」

死ななければ、何でもいい。

 

お母さんが亡くなり、僕は結婚して3人の子供にも恵まれた。

お母さんに、孫の顔を見せてあげたかった。

たくさん遊んで欲しかったし、子供の事も見て欲しかった。

生きていてくれれば、本当に良かったと思う。

人は健康で生きてさえいれば、それだけでいいんです。十分なんです。

 

みなさんにとっても、大切な人はいますよね??

あなたがいなくなれば、困る人は絶対にいますよね??

 

僕がもし病気になれば、子供と一緒にいることもできなくなり、働けず生活に困るかもしれません。

自分も嫌だし、周りも困る。

だから、僕は健康でいる必要があるんです。

 

あなただって、同じです。

あなたを必要とし、あなたがいなくなると困る人が必ずいます。

 

だから少しだけでもいいので、自分と周りの家族の「健康」を考えてみませんか??

まずは自分の体からです。

周りの人の健康は、まずあなたが健康でないと出来ない事です。

 

僕は、なぜ今頃になってこの記事を書いたのか、はっきりとした理由はわかりません…。

ただこの記事を読んで、あなたが何かを感じてくれたり、普通に生活している当たり前の毎日がいかに幸せな事か再確認できたり、

そして何よりも、「健康でいること」「生きること」「病気にならないこと」「病気にならないようにすべきこと」を考えてくれる「何かのきっかけ」になってくれればとても嬉しく思います。

 

あなたの「健康」を願います。

 

長い文章を読んでくださり、ありがとうございました。

2018年10月4日

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ABOUTこの記事をかいた人

石川 元洋

女性が8~9割を占める中、少ない男性の管理栄養士。 現在は、老人ホームの管理栄養士として働いています。 沖縄出身・沖縄在住の34歳。 現在は男の年子3人(5歳・4歳・3歳)の 育児に日々奮闘中。